.. _lowdin: Löwdin解析 ========== **Löwdin解析** は、電子状態計算で得られた電子を原子ごとに割り当て、 原子の電子数やスピンの分布を評価する方法の一つである。原子に中心を置いた 基底関数は一般に互いに重なっているため、重なりの部分にある電子をどの原子に 数えるかには任意性がある。Löwdin解析では、元の基底をできるだけ変えないように 直交化した基底に密度行列を書き直し、その対角成分で電子を数える [Lowdin1950]_。 このように電子を原子や基底関数に割り当てる解析を **ポピュレーション解析** (population analysis)と総称する。 **前提知識**: 基底関数による軌道の展開(LCAO)、対称行列の固有値分解、 :ref:`スピン制限計算とスピン非制限計算` の密度行列。 **学習目標**: * 非直交基底での電子数が :math:`\mathrm{Tr}(DS)` で与えられることを導く。 * 対称直交化 :math:`S^{-1/2}` の定義と性質を説明する。 * Löwdin密度行列 :math:`S^{1/2}DS^{1/2}` を導き、Mulliken解析との違いを説明する。 * 原子ごとの電子数と原子スピン密度を評価し、その解釈の限界を理解する。 非直交基底での電子数 -------------------- 基底関数を :math:`\chi_\mu`\ (:math:`\mu=1,\ldots,K`)、重なり行列を :math:`S_{\mu\nu}=\langle\chi_\mu|\chi_\nu\rangle` とする。以下では基底関数と 展開係数を実数とする。分子軌道を .. math:: \psi_i(\boldsymbol r)=\sum_\mu\chi_\mu(\boldsymbol r)\,C_{\mu i} と展開し、軌道 :math:`i` の占有数を :math:`n_i` とすると、電子密度は .. math:: \rho(\boldsymbol r)=\sum_i n_i\,|\psi_i(\boldsymbol r)|^2 =\sum_{\mu\nu}D_{\mu\nu}\,\chi_\mu(\boldsymbol r)\chi_\nu(\boldsymbol r), \qquad D_{\mu\nu}=\sum_i n_i\,C_{\mu i}C_{\nu i} と書ける。:math:`D` を基底関数表示の **密度行列** と呼ぶ。スピンごとに :math:`D^\alpha`、:math:`D^\beta` を定義すれば、スピン和は :math:`D=D^\alpha+D^\beta` である。全空間で積分すると、電子数は .. math:: :label: lw-trace N=\int\rho(\boldsymbol r)\,d\boldsymbol r =\sum_{\mu\nu}D_{\mu\nu}S_{\nu\mu}=\mathrm{Tr}(DS) となる。基底が直交していれば :math:`S=I` で、:math:`N` は :math:`D` の対角成分の 和になる。非直交基底では、:math:`\mu\ne\nu` の項 :math:`D_{\mu\nu}S_{\nu\mu}` が 2つの基底関数の重なり部分にある電子を表し、これを原子に分ける方法が一意に 決まらない。 **Mulliken解析** [Mulliken1955]_ は、:eq:`lw-trace` の対角和を基底関数ごとに分け、 .. math:: N_A^{\mathrm{Mulliken}}=\sum_{\mu\in A}(DS)_{\mu\mu} とする。これは重なりの電子 :math:`2D_{\mu\nu}S_{\nu\mu}` を2つの基底関数に半分ずつ 割り当てることに相当する。計算は簡単だが、:math:`(DS)_{\mu\mu}` は負になったり、 1軌道に入りうる電子数2を超えたりすることがあり、広がった基底関数を加えると 値が大きく変わる。 対称直交化 ---------- :math:`S` は実対称な正定値行列なので、直交行列 :math:`U` と正の固有値の対角行列 :math:`s` を使って :math:`S=UsU^{\mathsf T}` と分解でき、その平方根と逆平方根を .. math:: S^{1/2}=Us^{1/2}U^{\mathsf T},\qquad S^{-1/2}=Us^{-1/2}U^{\mathsf T} で定義できる。これを使って新しい基底 .. math:: :label: lw-sym-orth \lambda_\nu=\sum_\mu\chi_\mu\,(S^{-1/2})_{\mu\nu} を作ると、 .. math:: \langle\lambda_\mu|\lambda_\nu\rangle =\bigl(S^{-1/2}SS^{-1/2}\bigr)_{\mu\nu}=\delta_{\mu\nu} なので :math:`\{\lambda_\nu\}` は正規直交系になる。これを **対称直交化** (Löwdin直交化)という。 直交化の方法はGram–Schmidt法など他にもあるが、Gram–Schmidt法の結果は基底関数を 並べる順序に依存する。対称直交化はすべての基底関数を対等に扱い、しかも すべての正規直交系の中で :math:`\sum_\mu\|\lambda_\mu-\chi_\mu\|^2` を最小にする [CK1957]_。つまり :math:`\lambda_\mu` は、元の :math:`\chi_\mu` に最も近い直交化された 関数であり、:math:`\chi_\mu` と同じ原子に属すると見なすことが比較的自然である。 Löwdin密度行列と原子の電子数 ---------------------------- :eq:`lw-sym-orth` を逆に解くと :math:`\chi_\mu=\sum_\nu\lambda_\nu(S^{1/2})_{\nu\mu}` なので、分子軌道は .. math:: \psi_i=\sum_\mu\chi_\mu C_{\mu i} =\sum_\nu\lambda_\nu\,C^{\mathrm L}_{\nu i}, \qquad C^{\mathrm L}=S^{1/2}C と書き直せる。直交化した基底での密度行列は .. math:: :label: lw-density P^{\mathrm L}=C^{\mathrm L}\,n\,C^{\mathrm L\mathsf T}=S^{1/2}DS^{1/2} となる(:math:`n` は占有数を並べた対角行列)。この基底は直交しているので、 電子数は対角成分の和で与えられ、実際に .. math:: \mathrm{Tr}\,P^{\mathrm L}=\mathrm{Tr}\bigl(S^{1/2}DS^{1/2}\bigr) =\mathrm{Tr}(DS)=N が成り立つ。Löwdin解析では、原子 :math:`A` に属する元の基底関数に対応する 対角成分を合計し、 .. math:: :label: lw-population N_A=\sum_{\mu\in A}P^{\mathrm L}_{\mu\mu} をその原子に割り当てられる電子数とする。 閉殻の単一行列式では、Löwdin電子数が物理的に妥当な範囲に収まることが保証される。 分子軌道の正規直交性 :math:`C^{\mathsf T}SC=I` は :math:`C^{\mathrm L\mathsf T}C^{\mathrm L}=I` と同じなので、:math:`Q=P^{\mathrm L}/2` は占有軌道の空間への直交射影である。 射影の対角成分は :math:`Q_{\mu\mu}=\|Qe_\mu\|^2\le1` を満たすから、 .. math:: 0\le P^{\mathrm L}_{\mu\mu}\le2 となる。スピン非制限の場合は、スピンごとに :math:`P^{\mathrm L\sigma}=S^{1/2}D^\sigma S^{1/2}` を作れば :math:`0\le P^{\mathrm L\sigma}_{\mu\mu}\le1` が成り立つ。Mulliken電子数にはこのような 保証がない。 原子スピン密度 -------------- スピンごとのLöwdin密度行列から、原子 :math:`A` の **原子スピン密度** (spin population)を .. math:: :label: lw-spin m_A=\sum_{\mu\in A}\bigl(P^{\mathrm L\alpha}-P^{\mathrm L\beta}\bigr)_{\mu\mu} と定義する。これは原子 :math:`A` に割り当てたα電子数とβ電子数の差であり、 :ref:`スピン密度` :math:`\rho_{\mathrm s}(\boldsymbol r)` を原子ごとに分けた量に当たる。全原子の和は :math:`\sum_Am_A=N_\alpha-N_\beta` になる。上の不等式から、1原子1基底関数の場合は :math:`|m_A|\le1` である。スピン制限の閉殻計算では :math:`D^\alpha=D^\beta` なので、 すべての原子で :math:`m_A=0` となる。 簡単な例:最小基底の水素分子 ---------------------------- 2つの水素原子に1s基底関数 :math:`\chi_1`、:math:`\chi_2` を1つずつ置き、重なりを :math:`s` とする。基底状態では結合性軌道 :math:`\sigma_g=(\chi_1+\chi_2)/\sqrt{2(1+s)}` に電子が2個入るので、 .. math:: S=\begin{pmatrix}1&s\\s&1\end{pmatrix},\qquad D=\frac{1}{1+s}\begin{pmatrix}1&1\\1&1\end{pmatrix} である。:math:`DS` の対角成分はどちらも1なので、Mulliken電子数は各原子1になる。 一方、:math:`S` の固有ベクトルは :math:`(1,1)/\sqrt2` と :math:`(1,-1)/\sqrt2`、 固有値は :math:`1+s` と :math:`1-s` なので、:math:`S^{1/2}` は :math:`(1,1)` 方向に :math:`\sqrt{1+s}` を掛ける。したがって .. math:: C^{\mathrm L}=S^{1/2}\frac{1}{\sqrt{2(1+s)}}\begin{pmatrix}1\\1\end{pmatrix} =\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\1\end{pmatrix},\qquad P^{\mathrm L}=\begin{pmatrix}1&1\\1&1\end{pmatrix} となり、Löwdin電子数も各原子1である。等価な2原子では、どちらの方法でも対称性から 電子が半分ずつ分けられる。2つの方法の違いが現れるのは、原子が等価でない場合や、 基底関数の広がりが原子ごとに大きく異なる場合である。 :math:`P^{\mathrm L}` の非対角成分 :math:`P^{\mathrm L}_{12}=1` は、直交化した基底で見た 2原子間の電子の共有の程度を表し、:ref:`結合次数` の指標として使われる。 説明用の事例:水素原子鎖 ------------------------ `水素原子を並べると電子バンドは生まれるのか `_ では、STO-3G基底(水素1原子あたり1個の基底関数)で計算した有限水素原子鎖 (原子間隔1.8 Å、Psi4 1.10)にLöwdin解析を用いている。スピン制限計算では、 各原子のLöwdin電子数はほぼ1で、例えば :math:`N=16` のRHFでは鎖の端の原子でも 0.994程度である。 スピン非制限計算では、:math:`N=32` の鎖の中央で原子スピン密度 :eq:`lw-spin` が UHFで :math:`\pm0.895`、UKS-PBEで :math:`\pm0.614` と原子ごとに符号を変える。 1原子1基底関数での上限 :math:`|m_A|\le1` と比べると、UHFではα電子とβ電子が 1つおきの原子にほぼ完全に分かれていることがわかる。全原子の和は :math:`N_\alpha=N_\beta` を反映して0になる。 解釈と限界 ---------- 電子を原子に分配する方法は一意ではなく、Löwdin電子数は観測量ではない。値は基底関数の 選び方に依存し、特に広がった基底関数を含む基底では、ある原子の基底関数が別の原子の 周りの電子を表すようになるため、原子への割り当ての意味が薄れる。Mulliken解析、 Löwdin解析のほかに、電子密度の空間分割に基づくBader解析やHirshfeld解析、 自然軌道に基づく自然ポピュレーション解析(NPA)なども用いられる。 したがって、Löwdin電子数や原子スピン密度は、同じ手法・同じ基底で得た結果を比較し、 電子状態の傾向を読み取るための指標として扱う。 関連項目 -------- * :ref:`spin_restriction` * :ref:`bond_order` * `水素原子を並べると電子バンドは生まれるのか `_ 参考資料 -------- * `ORCA Manual: Population Analysis `_ * 密度行列とポピュレーション解析の教科書的な説明は [Szabo1996]_ の3章にある。 .. [Lowdin1950] P.-O. Löwdin, “On the Non-Orthogonality Problem Connected with the Use of Atomic Wave Functions in the Theory of Molecules and Crystals,” *Journal of Chemical Physics* **18**, 365–375 (1950), `doi:10.1063/1.1747632 `_. .. [Mulliken1955] R. S. Mulliken, “Electronic Population Analysis on LCAO–MO Molecular Wave Functions. I,” *Journal of Chemical Physics* **23**, 1833–1840 (1955), `doi:10.1063/1.1740588 `_. .. [CK1957] B. C. Carlson and J. M. Keller, “Orthogonalization Procedures and the Localization of Wannier Functions,” *Physical Review* **105**, 102–103 (1957), `doi:10.1103/PhysRev.105.102 `_.